重信房子は美人活動家で娘を溺愛「メイちゃんとは泣いて抱き合いました」

重信房子は美人活動家で娘を溺愛話題の人

重信房子(しげのぶふさこ・76歳・日本赤軍元幹部)が、20年の刑期を終えて出所しました。また、重信房子の若い頃が美人で、娘の重信メイも美人だと話題になっています。

ここでは、重信ふさこの若い頃の美人な顔画像と生い立ち、家族である重信メイについてをまとめていきます。

重信房子が若い頃が美人「美人テロリストとして憧れられていたか」

重信房子の若い頃が美人だったのかどうか調査しました。

重信房子の顔画像を調べてみると、複数の美しい女性の画像がヒットしました。

重信房子の若い頃は、とても清楚な美人という感じで、テロリストというイメージではありません。

こちらは、少し大人になった年代の写真と思われます。

この画像は、たばこを吸っているので、清楚とはいえなくなりますが、それでもかなりの華やかな美しさがあります。

こちらは、重信房子が28歳の時のインタビューを受けたときの様子です。

こちらの画像は、「重信房子(21歳)明治大学」とありますが、重信房子本人のものとは違います。おそらく、過去にドキュメンタリードラマなどで、重信房子役を演じた女優さんかもしれません。

重信房子は、2000年、国内で逃亡中のところ、大阪府高槻市内で逮捕されました。その時の年齢は既に54歳ですが、逮捕時(今から22年前!)でも掲示板では「重信房子の若い頃は美人だった」と話題になっていました。

2000年11月8日

重信房子が高槻市内で逮捕。速報でテロップでてた

 

28歳の重信房子のインタビューが美人だ!

重信房子の若い頃はなかなかの美人だと評判だった。自分のアパートで公安の若いお兄ちゃんが盗聴しているの知ってて、わざとHしたりとかしてたらしい

2000年の掲示板に書き込んだ人達は、当時20代だとすると、現在40代の男性達となります。40代の男性達にとって、当時の重信房子は美人テロリストとして、どこか憧れのような気持ちになっていたように見受けられます。

こちらは、2000年逮捕時の重信房子の画像です。なぜか笑いながら両手の指を突き立てたり手を振ったりしています。

若い頃は、とても美しかった重信房子も、数々の残虐なテロ行為と長年にわたり逃亡生活により、容姿も変わってきました。

重信房子は美人活動家で娘を溺愛

そして、現在の重信房子の顔画像です。若い頃の美しさは見る影もありません。

重信房子の生い立ち「美人を武器に地位を上げていったか」

重信房子を調査しました。

重信房子のプロフィール

生年月日:1945年9月28日
出身地:東京都世田谷区
高校:東京都第一商業高校
大学:明治大学文学部史学地理学科(日本史学)夜間部
家族:娘1人(重信メイ)

 

重信房子は、東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれました。父戦後の血盟団事件に関わった右翼団体金鶏学院の門下生であった父親の影響を強く受けていたと言われています。

明治大学の夜間部に入り、大学の学費を支払うために、当時一番給料が高かったキッコーマンに就職しました。

重信房子は、もともとは小学校の社会の先生になりたくて大学では文学部史学地理学科を専攻していた普通の女子大学生で、安定した家庭を持つことを望んでいましたが、学費増額に反対する運動に参加したことをきっかけとし、活動家として人生をかけるようになりました。

重信房子の生い立ちは、ごく一般的な家庭で育ち、働きながら大学の夜間部に入るなど、真面目女子大学生でした。

このようなごく一般的な女子大学生だった重信房子が、後にパレスチナで日本赤軍を結成し、最高指導者となり、ハイジャック事件や外国公館を襲撃するなど、多数の民間人を巻き込んだテロ事件を繰り返してきたとは、現代の私達には理解できませんが、時代の流れとか、父親の影響などがあったのでしょうか。

オウムの女性幹部にも美人が多かったが、当時の新左翼の女性幹部にも美人が多かった。理由は、オルグが成功すれば、組織内部での地位も上がるので、どうしても美人が有利になる

組織の拡大には、構成員を増やす必要があり、労働者や学生たちに宣伝や勧誘をする人材が必要となります。オルグとよばれる団体への勧誘が成功すると、組織内部での地位が上がります。

重信房子は美人の武器に、多くの男性を勧誘し、オルグを成功させ、着々と組織での地位を上がっていったのでしょう。

重信房子のような美しい女性に近寄られ、「一緒に頑張りましょう」などと言われたら、男性はひとたまりもありません。当時は、重信房子を目当てに組織に入ってしまった構成員も多いのではないでしょうか。

重信房子の娘は重信メイ「革命戦士として軍事訓練を受けていたか」

重信房子の娘の重信メイも美人と話題になっています。

重信房子が最初に結婚した相手は奥平剛士ですが、それは偽装結婚であり、後にパレスチナ人男性と結婚し、その男性との間に娘である重信メイをもうけました。

結婚したパレスチナ人も活動家で、イスラエルとの戦闘中にミサイルを受けて死亡したとされています。

重信房子の娘である重信メイは、パレスチナ人の戦士でありリーダーだった父親の素性が明かされると、重信メイ自身も暗殺される恐れがあるため、16歳まで父親が誰かを知らされずに、28年間無国籍で過ごしました。

本名は奥平メイ、生年月日は1973年3月1日で現在49歳です。レバノンのベイルートで生まれています。

大ベイルートアメリカン大学国際政治学科大学院に進学し、その後レバノン大学でジャーナリズムを学び、2001年に日本国籍を取得し、日本へ初来日しました。

職業はジャーナリストでありニュースキャスターもされていて、その上、女優として、いくつかの映画出演もされています。

肩書きは、河合塾英語講師、APF通信社記者・リポーター・中東放送センター(英語版)東京特派員、など、華麗な経歴がある才色兼備な女性であることがうかがえます。

そして、この重信メイさんは、才色兼備なだけでなく、スーパー美女としても有名です。

重信房子が高槻市で逮捕された2000年の掲示板には、娘の重信メイさんが「ハリウッド級の美形らしい」と話題にされています。

「重信房子娘は、子供の頃から革命戦士として軍事訓練受けているらしい」とありますが、これは事実かどうかは不明です。

重信房子の人生も壮絶で自業自得と言えますが、娘の重信メイさんは、生まれた頃か過酷な人生を背負わされていたわけです。

しかし、重信メイさんは、自分の置かれた境遇を受け入れ、流れに乗りながらも、大学で学びながら、自分の行くべき道を自分で切り開いてきました。

重信房子という母に対して恨みをもつのではなく、誇りにさえ思っているようです。

そして、出所後のインタビューで、「一番最初にメイさんとは、どんなことを語りましたか」の質問に、重信房子は「涙で言葉が出ませんでした」と一言。そして、隣のスタッフのような女性が「メイちゃんとは涙で抱き合いました」と説明されました。

その後重信房子が「メイのくれたハッタ?(ストールのようなもの)かぶります」と、母と娘のお互いの愛情が垣間見えるシーンがありました。

重信房子は、自分がテロリストであり、いつ逮捕されるかわからない危険な境遇の中、娘の重信メイを出産しました。

一緒に過ごす時間は、普通の親子より少なかったはずですが、重信房子にとって、娘の重信メイは、きっと、自分の命より大切なかけがいのない存在なのです。

重信房子という女性の生き方は、現代の我々には理解するのは難しいですが、当時の彼女は彼女なりの正義を貫いていきました。

刑期を終えた重信房子は、日本赤軍による過去の事件について「直接関係のない方々に心ならずも被害やご迷惑をおかけした」と謝罪し、武装闘争路線を「間違っていた」と総括していると報じられました。

重信房子が出所したことが話題になり、本人がもてはやされているような印象をうけますが、実際は罪のない人々を死傷させた極悪人です。「たった20年?なんで終身刑じゃないんだ」と批判の声もあります。

出所した重信房子は、見かけは年相応でしたが、しっかりした口調で話す切り口は鋭く、社会や政治を独自に見る目は衰えてないようでした。

重信房子は、現在、ガンを患っており、しばらくは病院での闘病生活となりますが、今後も目を離せない人物であることは間違いありません。

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